東日本大震災から14年 – 追悼と記憶の継承、新たな防災への決意

自然災害

2025年3月11日、東日本大震災から14年が経過しました。2011年に三陸沖を震源として発生したマグニチュード9.0の巨大地震と、それに伴う大津波は日本に甚大な被害をもたらしました。警察庁と復興庁の発表によると、この震災による死者は12都道府県で合わせて1万5900人、行方不明者は2520人、関連死は3808人にのぼります。岩手県と宮城県では現在も53人の遺体の身元が特定できないままです13。今日は各地で追悼行事が催され、日本中が震災の記憶と向き合い、未来の防災に思いを巡らせる一日となりました。

変わりゆく追悼の形 – 減少する式典と新たな伝承方法

東日本大震災から14年が経過し、公式な追悼式典の開催数は年々減少しています。読売新聞の調査によると、岩手、宮城、福島の3県沿岸部37市町村のうち、2021年は32市町村が式典を開催していましたが、2024年は17市町、そして今年2025年は約4割の15市町に減少しました。岩手県大船渡市と福島県富岡町は今年から式典をやめる決断をしています。

大船渡市は「コロナ禍もあって参加者が減少し、遺族が思い思いの場所で過ごすようになっていることを考慮した」と理由を説明しています。一方で、関連死を含めた死者・行方不明者が3970人に上る宮城県石巻市は、「最大の被災地としての責務」として今年も遺族らが出席する式典を開催し、今後も継続する方針です。

県主催の追悼式も対応が分かれており、岩手県と福島県は開催し、福島市で開かれる式典には石破首相が出席しました。一方、宮城県は市町が実施していることなどから県主催の式典は実施していません。

このように公式な追悼の形が変化する中で、東北大災害科学国際研究所の川内淳史准教授は「追悼式は被災者の体験を確認、共有して記憶に刻む場であり、地域の歴史として伝える機会を作るなど、被災者の記憶をどう後世に伝えるかを考えることが大切」と指摘しています。

市民主導の追悼行事 – 記憶を繋ぐ灯火

公式式典が減少する一方で、市民主導の追悼行事は各地で継続して行われています。宮城県石巻市では「東日本大震災追悼3.11のつどい」が石巻津波復興祈念公園内を主会場に開催されました。「がんばろう!石巻」看板前とその周辺施設にて市民手作りの追悼行事が実施され、献花台の設置、追悼行事、黙祷・バルーンリリース、灯籠キャンドル点灯、追悼歌などのプログラムが行われました。

兵庫県神戸市では、阪神・淡路大震災の被災地から東北への連帯を示す追悼行事が開催されました。神戸市中央区の東遊園地では、2012年から毎年3月11日に追悼行事が営まれており、2025年は阪神淡路大震災の被災者や東北でのボランティア経験者など約20人が参加しました。参加者たちは「1.17希望の灯り」から分灯された火を「3.11よりそう」の形に並べられた約1500本のキャンドルに灯し、午後2時46分に合わせて黙祷を捧げました。

さらに、LINEヤフー株式会社によって「3.11防災花火」が実施されました。これは東日本大震災の被災者追悼とともに、震災を風化させずに未来に向けた防災に繋げていきたいという想いが込められており、追悼の意を込めた白い花火のほか、色とりどりの花火が打ち上げられました。花火は、目黒区の地域避難所である東京都立駒場高等学校を含む、東京都・神奈川県の3つの避難所で打ち上げられ、防災意識を高める機会となりました。

震災の象徴 – ダンボルギーニが伝える復興の物語

震災の記憶を伝える象徴的な存在として注目を集めているのが、宮城県石巻市の今野梱包株式会社が製作した「ダンボルギーニ・アヴェンダンボール」(通称:ダンボルギーニ)です。この特殊強化ダンボール製のスーパーカーは、震災復興の象徴として誕生しました。

石巻市も甚大な被害を受けた中で、同社の今野氏は「俺たちがこの街の『夢』を見せられていないんだ。仕事や生活に手一杯で、疲れ果てていてはいけない。自身の夢やあこがれを、形にして示そう」という想いからランボルギーニをダンボールで製作する決意をしました。

実物のアヴェンタドールがないため、ネットの画像やラジコンをもとに16分の1サイズから始め、2分の1サイズへと拡大。強化ダンボールならではの課題を克服して2015年11月4日に完成しました。同年12月にはランボルギーニ販売店の協力を得て、宮城県女川町の駅前商店街で実車のアヴェンタドールと並んで展示されました。

このダンボルギーニは、上皇さま上皇后さまにも展示される機会があり、見た人々から感嘆の声が上がりました。一つの企業が夢を形にした取り組みが、被災地の復興の象徴として今も多くの人々に希望を与え続けています。

防災への新たな決意 – 南海トラフへの備え

東日本大震災から14年が経過する中、日本は新たな地震災害への備えを強化しています。2025年1月1日に政府の地震調査委員会が発表した内容によると、今後30年以内に南海トラフで想定されるマグニチュード8から9の巨大地震が発生する確率は、これまでの「70%から80%」から「80%程度」に引き上げられました。

東日本大震災後のこの14年間では、最大震度7の地震が5回発生しています。熊本地震(2回)、北海道の胆振東部地震、そして昨年2024年元日に発生した石川県の能登地震です。これらの経験から、日本は「南海トラフ地震」がいつ発生してもおかしくない状況に備える必要性が高まっています。

防災学習アドバイザー・コラボレーターの諏訪清二さんを中心とした一般社団法人防災教育普及協会は、3月11日を「防災教育・災害伝承の日」とする取り組みを進めています。諏訪さんは、東日本大震災の特徴として若年層の「語り部」が多く活躍していることを指摘し、彼らが自身の経験を話せる場を作りたいという思いを語っています。

特に印象的なのは、震災当時中学生だった女性の体験談です。「地震があった日、彼女はジャージで授業を受けていたんです。地震が起こって避難する時『走りながらジャージのズボンについてるヒモをギュッと結んだ』。『なぜ?』と聞くと、彼女は『津波につかまって瓦礫につぶされて、ボロボロの遺体になっても、ジャージにある名前の刺繍でお母さんが私のことを見つけてくれるから』と、笑いながら答えた」という証言は、当時の切迫した状況と若者たちの心の準備を物語っています。

個人の体験と記憶 – 震災の日を忘れない

震災の記憶は、被災地の公式行事だけでなく、個人の体験として日本全国で共有され続けています。ブロガーのやはぎたかしさんは、震災当時について「かって経験したことのないような凄い揺れで停電になり、本当に家が壊れるかと思いました」と振り返ります。

当時、勤務先の工場は停電のため臨時休業となり、社内の完全な通常稼働に戻ったのは震災から約1ヶ月後の4月11日でした。また、ガソリン不足や価格高騰など日常生活に大きな影響があったことも記録されています。

Kiko Kobayashiさんは、震災の数日前に「自分の家が『どんぶらこ、どんぶらこ』と川に流れていく夢」を見ていたという不思議な体験を述べています。「夢と現実の境界が、ふと揺らぐような感覚に囚われました」と、予知夢のような体験を振り返っています。

また、カウンセラー・エッセイストの若松美穂さんは、宮城県の沿岸部に住む両親が被災し、家と仕事を失った経験を持ちます。家族の安否が分からなかった数日間について「身内が生死をさまよっていると思うと、なにかを口にする元気もありませんでした」と当時の苦しみを語りつつ、友人やご近所さんからの食料の差し入れや励ましのメールに救われたことを感謝の気持ちとともに記しています。

震災の記憶を未来へ – 教訓を活かした防災への継続的な取り組み

東日本大震災から14年が経過する中で、追悼の形は変化しつつも、震災の記憶と教訓を継承する取り組みは続いています。公式な追悼式典の数は減少していますが、市民主導の様々な追悼行事や防災啓発活動によって、震災の記憶は風化することなく次世代に伝えられています。

「ダンボルギーニ」のような震災復興の象徴的存在や、若い世代の語り部の活動、様々な追悼行事を通じて、震災の経験は日本社会に根付いています。また、南海トラフ地震の発生確率が上昇する中で、過去の震災の教訓を活かした防災への取り組みはますます重要になっています。

3月11日は、犠牲者を追悼するとともに、震災の教訓を未来に活かし、防災意識を高める日として、これからも日本人の心に刻まれ続けることでしょう。一人ひとりが震災の記憶を風化させず、日常的な防災意識と備えを持ち続けることが、未来の災害から命を守る最も確かな道と言えるのではないでしょうか。

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